Friday, 16 May 2014

我々はみなナチスの子孫である。

 ナチスを断罪したものたちは、その発生の理由を問わず、自らは民主主義を冠した正義であると喧伝した。まさにその時である、ナチスの魂が我々の中に飛び込んだのは。それらの行為は、鏡に映った自分の姿を壊したに過ぎず、本体は依然ここに残っている。近代国家のシステムに潜むナチスと呼ばれる国家装置は問題が顕然したにも関わらず、『正義』の連合軍は解決せず、そればかりか自らの胎内に再度ナチス的思想を孕ませるに終わった。
 我々とは『近代国家』に属する国民全てを指す。
 なぜならそれは、我々がポスト•ナチスの時代にいるからである。ポスト•ナチスとは、ナチスは終わったと思いながらも、まだナチスの影響下にいる時代である。言いかえれば、ナチスが我々の思想の中から消えていないということである。それはまた『ポスト・ナショナリズム』の時代とも呼べる。
 フランス革命を機に世界中に普及し始めた近代国家システムは、その開闢からナチスの細胞を孕んでいた。国民•市民と名付けられた革命家たちに権利を与えられた人々は、その結果として自らの額にナチス的思考の種を植え付けられることとなった。
『我も君も同じ国のはらからなり、彼らとは違う』
 権力機関と教育とマスメディアとによって熟成されるこのような共同幻想的枠組みは、それらの三つの装置を始めた人々が死に絶えたあとも続き、やがてそれが事実であるとみなされるようになった。権力機関が運営する教育がその『社会』の思考を植え付け、マスメディアがそれを利用し社会の枠組みを規定する。三位一体が国境内の共同幻想、すなわち『我々は彼らではない』という社会意識を刷り込んでいる。
『非•近代国家』が王や絶対的権力者の個人的な共同幻想の社会なら、『近代国家』とは共同による共同幻想の社会であるというトートロジーとなる。つまり、明確な主催者がわからず、そのために何をうち倒せばその幻想から抜け出せるのかがわかりにくい社会である。
 共同幻想は、近代国家に住む人々が学校等で学ぶことが当たり前だと思っているのであろう教科によって意識づけられている。それは国語と自国史の教育である。この二つの教科は、思考するのに必要な言語の統一性のコントロールとアイデンティティの一つとなる宗教の布教を意味する。
 国語は、教育とマスメディアによって国の隅々まで伝播され方言とタグ付けされた土着の言語と差異化される。言わば、或る『国』で使われる言葉の最大公約数と扱われ、そこに一体性を見なさせるのである。 宗教は、同じ世界『感』を共有させ、自らをその末端として認識させる目的がある。そうして成長した信者は、お布施(税金)を中枢機関に捻出することに疑いを持たなくなる。歴史と名付けられた主題の意味するのは、まさにそれである。言語教育によりその土台を、そして歴史教育により個人の意識の中に『国』という共同幻想上の地域の境を設定させるのである。つまり、境の外側は我々とは違うという意識の植え付けである。マスメディアで言論を扱うものたちは、その意識の延長線上にある。教育が学校単位のコントロールなら、マスメディアとは国単位、また情報がグローバル化した現在では世界規模でのコントロールである。
 ある時代の背景、人々がその時何を考え、どうしてそう考えて、その結果どうなったのかを知り、帰納的に得た教訓を人間社会に生かすような実験報告としての歴史は、そこには存在しない。歴史の内側で考察されるべき項目のことを、我々は現在『歴史』と呼んでいるのである。卵料理全般についての本のタイトルが、『ポーチドエッグ』となっているようなものである。
 フランシス・フクヤマが言うような、『歴史の終わり』は、まだ始まってもいない。なぜなら安保理に代表されるような『正義』の民主主義の盟主国は、その地位の約束の見返りにナチスと名のついた装置の存続を決め、彼らの下に集結した国々も同じようにその装置をそれぞれの国のシステム下に組み込んでいるからである。つまり脅威が顕然化したナチス細工の組み込まれた社会システムは、安保理のお墨付きを得た形になったのである。よって、世界が民主化され、ダイナミックな革命や争いがなくなるというフクヤマの考えは、正しくもあり間違いでもある。間違いの根拠は、フクヤマが民主主義国家の代表として選ぶ国々が、どれしもナチス装置を組み込んでいるからである。それがある以上、ダイナミックな革命や争いは『民主主義国家』間で起こりうるからである。
 社会システムとしての不特定多数による共同幻想に基づく彼我の区別。そして、他の共同体より己のそれが優位であるという考え。このふたつが、ナチスと呼ばれた国家作用の最大要素である。
 その一つ目は、近代国家どこしもがその体内に宿すものである。つまり自国と他国という区別の意識の形成である。
 その二つ目は二項目に分かれる。第一の項目は、一つ目の国家作用に準じている。すなわち、不景気や自信の喪失感が広がった時に発生する、他者への責任転嫁である。責任転換から始まる差別意識は、やがて自らの優位性意識に変わる。これは、現在のすべての近代国家に共通する。第二の項目は、連合国、特に安保理五カ国に既に顕著に見えているものである。すなわち、多数決の結果を五カ国が覆せるという非民主的なこの機関の構造である。それはまさに近代国家におけるより明確なナチス装置の現前でもある。
 他の集団より己の集団が優れているという選民意識は、言わば自らは正義であるという自負である。正義とは神と同意義である。なぜなら、正義が存在するためには、反論の存在が許されないからである。科学と宗教の違いは、反論が許されるか否かに拠るが、正義は後者である。正義は絶対的なものであり、正義を自負する者は自らの正義に固守する。反論を許せば、正義でないという証明になるからである。
 特権の維持には、その所有の正当性を必要とされる。そこに生まれる特権意識は、自らが優れているという意識である。よって自ら永久の権利を課した五大国は、何が正しく、何が誤っているのかを決定でき、神の位置に座しているといえよう。神は何にもまして優れていなければならず、また神への批判は許されない。五大国の武力行為が裁かれないのは、そこに起因する。どれだけ戦争を行おうとも、大規模な殺戮行為を行おうとも、平和や人道に対する罪に問われることはない。そもそも神は下級の裁きの正しさを裁き得る最大の存在であり、裁かれることはその存在の根幹を否定することになる。神の正しさを裁けるものはいない。
 五つの神の国々は、民主主義の勝利を導いた結果としてその地位を得たとしている。しかしそれにより同時に得た自らの特権性が、彼らの国をよりナチス的にしていると気が付いていない。国連憲章にある『正義』の文字、それは『彼らの』正義であり、正義を独占する者=神という構図に陥り、それはナチス的思想に繋がっているという構図にも陥っていることに気が付いていない。
 世界的な規模で見れば、『歴史』が『世界の正義』を構築している。『世界の歴史』という神話の下に国々が存在している。そしてその神話はナチス的問題を残した国々の構築した『宗教』から生まれている。
 『正しい歴史認識』という言葉に含まれる宗教性。
 『歴史修正主義』という言葉に含まれる宗教性。
「我々はお前たちとは違う。それらの行為はお前たちの祖先達がしたことだが、お前たちは彼らと同じ生まれであり、故にお前たちは同じであり、同じ行為を繰り返すのである。なぜならお前たちの集団の名前は彼らのそれと同じではないか」
「我々はお前たちの思う我々とは違う。お前たちの思う我々の祖先のしたことは、真実と違う。我々の祖先の真実は別であり、故に同じ集団名を持つ我々は現在置かれている境遇に否と唱える」
 とは『世界の神話』を構築する『宗教』の体制側にいる国の言葉と、非体制側にいる国の言葉である。
 このような意識が、何かに似ているのは明らかであろう。
 どちらも人類の実験結果としての『歴史』の役割を認識しておらず、それゆえ世界は争いや差別のない世界には辿り着かない。

 反対に、人類が『歴史』を真摯に受け止め、問題解決に取り組むのなら、正義が存在せずとも平和で差別のない世界を築けるであろう。国というのは、ある面積で集積した資本を使い、どのようにその面積内の人々の暮らしをよくできるのか、というシステムである。そこに共同的幻想的なアイデンティティを組み込んだのは、確かに最初は有効であっただろう。しかし現在、ポスト・ナチス(ナショナリズム)に生きる我々は、それを取り外せる意識を持ち得るのではないだろうか。

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