Thursday 29 November 2012

We're The Most Childish In The World (700 x 1000, acrylic painting) by sin_g (2012)


Map Of Japanese Nuclear Terrorism (700 x 1100, map, coffee, pen, acrylic) by sin_g (2012)




Fairy Land 9 (A4, pen, pencil) by sin_g (2012)


Fairy Land 8 (A4, pen, pencil) by sin_g (2012)


Fairy Land 7 (A4, pen, pencil) by sin_g (2012)


Fairy Land 6 (700 x 1000, pen, pencil) by sin_g (2012)


Fairy Land 5 (968 x 520, pen, pencil) by sin_g (2012)


7th Immorality (147 x 100, pen) by yandel (2012)


National Flag (700 x 1000, acliryc) by sin_g (2011)


5th Immorality (147 x 100, pen) by yandel (2011)


8th Immorality (147 x 100, pen) by yandel (2011)


2nd Immorality (147 x 100 acrylic, pen) by yandel (2011)


water experience series (A4, pencil) by sin_g (2011)











pilotage
When we speak, we think that the
interlocutor understands what we take and vice versa. It seems that we
construct the conversation while we speak each other.
However it is not true.
It is a belief, a thing that we would like to regard like that because the
language is an image of our perception. It is like mixing a coloured water into
a transparent one. No matter how long it takes, the fact that it is water never
changes for that.
It is said that there are 2
phenomena in a word. Firstly, it is an expression as sounds or letters. And
secondly, that of contents.
Nevertheless, in my opinion, there
is the 3rd by seeing the 2nd in detail. It is a sentiment. When we use a word,
there could be a judgment in it. For example, those who have had a terrible
experience over eating oysters, there must be a bad feeling against the word “Oyster” when they write it or taking about it. In this case, “Oyster” is not an independent word by the
sound or writing.
We, humans, communicate by the
concepts. It is impossible to transfer what we have in our mind directly to
other peoples. We have to make it into a word, music or a body language, in
other words, the expression of the second dimension. The action of molester is
same with that of her lover does.
The first thing that appears in our
minds never touches the others directly because the condition of the point
where we were can be not replaced by the others. The other person can not be in
the same place of another ones. This line of us, made by the successive of our
mind is just for a person. We are like we are because we are ourselves for
ever.
It is necessary to have a realization that
requires a concept when a perception becomes a feeling. For “considering” a
pain, for instance the Japanese have to know the word “itai(Japanese)” including its concept. Without knowing this word, they cannot say
that they have a pain. Therefore those who do not know this word never think “itai” no matter how hard we gave them the pain. They perceive a pain by
their language. It is like that those who have lived without knowing the
existence of a language even do not know the meaning of a day.
A concept is piles and telescope. A certain
concept is a particle of another concept. We can say that a concept has an
unlimited space although the way of expression is limited. For example, when we
ask someone about what is a family. The answer is made by the concepts that are
gained by his/her life and he/she changes the concepts for let others
understand. The sounds are not constructed by
just do, re, mi, fa, sol, la, si. It is us who decide it, but the sounds are
unlimited. We always lack the ways for expressing what we would like to show.
The Japanese, they are, in a certain sense, a
undeveloped ethnic. The“ethnic”here means the people who spent the
generation in this island with their language, that of the concepts which are
the origin of the words of the language and the society which connects with
these things.
Why undeveloped. It is because they can not
have the pure and unique concepts in general. Since they started to use the
Chinese characters, the development of their own concepts stopped.
However, it can be said that that are the Japanese
who live with this combination of languages.
What I had just mentioned above is
a traditional concept or a historical concept. It already existed before we are
born.
And there is another concept. It is
an individual concept. That is what I have also mentioned above, the concept
which each individual has created with the limited expressions after he/she
accepts the traditional concept.
A Japanese author, Yukichi Hukuzawa
says, “those
who study hard will be rich and noble men while those who do not will be the contrary
men”. Here, in the meaning of “study” there is history.
A history of a nation is all of the
events of the life concerning metrology, economy, wars and trading etc. And as
I mentioned, there are factors for those ones of the history.
However the situation changed
completely by the defeat of the 2nd world war. By a policy named WGIP(War Guilt
Information Programme) of USA, who occupied Japan after the war, the Japanese
traditional concepts were denied. That is to say, the history was forced to
stop.
The stop of the history cuts the
traditional concepts. Surely, the events that had happened do not change their
forms. But for the people of Japan, the concepts which had been with the events
have varied and now it is something that they do not see like they had seen
before. The traditional concepts until then have become things different from
these of their own.
As a result, the concepts only rested
for them are these that were given by the country occupying them as the new ones
and their individual concepts. However the individual concepts base on the
traditional ones therefore their new individual ones are those that based on
the new ones after the policy of USA takes effect.
For that reason, the history for
the Japanese nowadays has just a several decades in it. And their way of
thinking is that of immature and since they are like neoteny, the phrase as “life
of a human is more important than the earth” or “the three non-nuclear principles (not to construct, not to have and
not to let enter)” are pleased due to just its nice
simple sounds but no logic. In other
words, they are living in the primitive age.
It is complicated for a man of a
concept to undertand another man who do not this concept and vice versa. The
concept of the owner itself is also special. We cannot help but transfer these
things by the variety of way of expression.

water experience (postcard, pen) by sin_g (2011)



『水先案内』展を開くにあたって。

 「作品で語れ。言葉で語るな」とは、知り合いの画家先生の言葉であります。しかし今回、初めて自分の作品だけの展示をすることにあたり、どうもそうは言ってられないなと考えるにつけ、このように文字を打つ次第です。ありていに言わば、書いてみたい、という欲求に負けたわけであります。
この紙を手にとられた来訪者様は、展示した九つの作品を見てなにをお感じになられたのでしょうか。それは僕の知るところではありません。もし僕がその場にいるのならお聞きすることもできましょうが、中々そうも叶いません。また、もし我々が言葉を交し合っても、我々がそれを通じて理解しあえるとも考えてはおりません。理解したとは思えるのでしょう。しかし、実際にその状態にいるとはいえないというのが僕の心情であります。なぜなら言葉というのは認識の表象であるから。それは透明な水に色の違う水を混ぜていくようなこと。どこまで経っても初めの状態である水からは脱出できないでいるのです。
ひとつの言葉にはふたつの現象があるといいます。それは音や文字といった表現と、その言葉の内容です。僕はその後者を更に分割できると考えています。それは、その内容に対する感情です。ある人間がある言葉を発するとき、そこにはある判断が組み込まれていることがあります。牡蠣にあたり壮絶な経験をしたことがある者からすれば、『牡蠣』という言葉を使うとき、そこには独立した『牡蠣』という言葉を形成する音や文字や意味と時同じゅうして、底知れぬ嫌な感じに襲われるものです。
人間はコンセプトを通じてコミュニケーションをとっています。我々が他者と意思をはかろうとするとき、常に伝えようとしたそのものを伝えることは叶いません。言語化、音楽化、接触を含めた身体表現といった二次元なものに変えなければ伝える術を持ちません。恋人が愛情を根底に愛する人に触れる行為は痴漢のそれと同じであります。我々が伝えようとした一次元なものは、決して直接に伝わることはありません。それは自分の居る、または居たある一点には同時に他人が存在することができないからです。またそのようにして蛇腹のように繋がりのある意識の流れは、決して他人が交代できるものではないからです。足して混ざらず、引いて消えるような瞬間の存在はないのです。我々が我々である以上、我々はいつまでもどこまでも個々の我々であるのです。
知覚が感覚となるためには、コンセプトを前提とした認識が必要とされます。針で刺されたときに起こる知覚を、『痛い』と認識するためには、『痛い』というコンセプトを含めた言葉を持っていなければなりません。『痛い』という言葉を知らずに『痛い』とは言えないのです。そのため、『痛い』という言葉を知らない外国人は、針で刺そうが槍で刺そうが『痛い』とは思わないのです。彼らは彼らの言葉でその知覚を認識するのです。言葉の存在を知らないで生きてきた者には、『日付』の意味がわからないのです。
コンセプトは重層的で且つ入れ子状態なものです。あるコンセプトの構成要素がコンセプトであるからです。例えば『家族』とは何であるのかの問いに答えを出した答案者達それぞれが別々の蛇腹的意識を持ち、それでも限定のある言葉等で表現をしているのです。答えを導き出したその意識の構成要素はそれぞれの答案者だけにしか得られなかったコンセプトです。同時に得られなく、まったく同じように見えても、どこかで合致しないものです。いわばコンセプトは無限で、表現は有限なのです。音はドレミファソラシドだけではないのです。それゆえ我々の伝えたいものを伝えようとするとき、それはいつも足らないのです。
さて、僕を含めた現代の日本人はある意味において未発達な民族です。民族としている以上、あえてここは大和民族としておきましょう。この島国で培ってきた言語およびそれの大本であるコンセプトとそしてそれに付随した社会生活と共に生きてきた民族のことです。なぜ未発達なのか。それは我々は純粋独自なコンセプトを総じて持つことが出来ないからです。なぜなら我々が漢字を使い始めたことにより、我々独自のコンセプト発達が止まってしまったからです。訓読みすることの出来なかったコンセプトは、すべて大陸発祥の借り物です。そこに善悪の基準を当てはめる必要はありません。それを抱合しながら生きてきているのが先者を含めた我々であるという考えもできます。
さて上記のことは、、伝統コンセプトにあたります。歴史コンセプトと呼んでもいいのでしょう。我々個人が存在する以前から存在していたコンセプトのことです。しかしそれとは別に、個人コンセプトというものがあります。先立って述べてきた、個々人が表現によって有限化された伝統コンセプトを受諾した上で作りあげたコンセプトのことです。個人コンセプトは、伝統コンセプトと似るときも反発するときもあります。
福沢諭吉の有名な「天は……」云々のくだりの後には、「学問を努めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学な者は貧人となり下人となるなり」と付随条件が記されています。福沢のいう学問は主に実学を指しているのですが、その中には歴史も含まれています。歴史とは生活出来事を包括したものです。度量衡や経済、争いや貿易、すべて入り交ざっているのが歴史の構成要素です。そしてその構成要素にも各々構成要素があります。その全てを一変したのが、我々にとっては第二次大戦の敗戦でした。占領国の日本史観否定政策により、我々の伝統コンセプトは覆されました。歴史の停止が行われたのです。歴史の停止、それは伝統コンセプトの断裂でもあります。それまでにあった出来事は無論変わることがありません。しかしそれに付随していたコンセプトは鼻を摘まんで目を背けるべきものとされました。それはもはや我々と相容れるものではなく、外にある別なものとして置かれたのです。
我々に残されたのは占領国から与えられたコンセプトを真新しいものとして受け入れたコンセプトと個人コンセプトのふたつになりました。しかし個人コンセプトも立脚するのは伝統コンセプトであるゆえ、我々がそれ以降培ってきているコンセプトは、我々にとっては新しいコンセプトに立脚した個人コンセプトであるわけです。我々はまだ数十年の歴史しかない伝統コンセプトの上に生きているに過ぎないのです。それゆえ我々の思考は未熟であり、「みない・きかない・かんがえない」という駄々っ子的な非核三原則や「一人の命は地球より重い」といった響きだけはいい単純な計算のない考えを好しとする子ども時代にいるのです。いわば、我々は原始時代にいるのです。『萌え』に代表される昨今の文化言葉が訓読みなのはそのよい証左であります。萌芽しかけているのです。
あるコンセプトの保持者が非保持者のことを、また非保持者が保持者のことを理解するのは難しいことです。保持者のコンセプトの構成要素のコンセプトもまた特別なものなのですから。我々はそれを色々ではあるが有限な表現方法で伝え合っていくしかありません。
などということを作品に関係なく考えた今日この頃でありますが、皆様どうお過ごしでしょうか。僕が鉛筆で表現した手や足や貝に見えるものを並べた作品に何をお感じになられましたでしょうか。皆様の意識に起こったもの、それは本当に普遍的なものでしょうか。
作品をご鑑賞いただきありがとうございました。また、展示場所を貸していただいたカオリ座の久保かおりさんに、紙上ですがここに謝辞を述べさせていただきます。

God's Attack 煙的上腕骨または45年の神の一撃(1035 x 414, pencil, blood on scroll) by sin_g (2011)





 米国は神である。我々は米国を神とする国の民である。かの国にする人でも政府という具体的なものでもなく、それらを抽象化した米国という国が神である。
 神には二種類ある。ひとつに菅原道真に代表されるような人神。もうひとつはそれ以外のものであり、ここでは自然神と名付ける。人神は、生前の善行に依るもの、不幸に亡くなった人間の霊の慰めるため、またはそれが悪霊になったものに祟りを起こさせないために神格化したものである。いずれにせよ、それらは神を創り出す人間とかつては同じであったものである。自然神とは我々とは違う存在である。
 神罰とは神の怒りであり、受けた者にとっては『理不尽』という現象を指す。つまり理不尽なことを神の為したこととして我々は看做しているということになる。
 近現代史において、およそ自然現象は科学という哲学で解明されてきているが、我々はまだ神を存在させ続けている。神という意味が解る以上、意識には神がいる。なぜなら神という言葉は我々の理性から作り出されたものだからである。神は不自然であり、自然に非ず。外的な神が現在まで証明されていない以上、我々人間の歴史上に存在した神とは、すべて我々の作りだした形而上的存在である。
 理性とは言葉である。言葉の特異性は、時間を持つ、ということである。我々は先人の言語を使って生きている。この文章も、書くという行為の前提条件の文字もそこに含まれる意味も読みも、そしてこれを読んでいる方が分を理解する行為のそれらも、過去の人間が残した日本語の存在があってのことである。我々が新しく創り出したルールに依るものではない。それは歴史の中で積み上げられてきたものである。歴史とは意識の選択であり、種々雑多の出来事の中から先人がよきものとして残した過去の結果である。
 言葉とは容れ物である。故に歴史、言語、また各人によって、同じ言葉でも内容が違う事がある。言葉は意味を規定しているが、意味には主観的なものも交じるからである。『永世中立国』という言葉に対し非武装中立を思い浮かべがちな日本人とは違い、スイスでは国民皆兵である。言葉という容器に容れられたものが真実となるのである。
 米国は自然神である。それゆえその怒りは神罰であり、我々にとっては理不尽な現象である。その代表が原爆投下である。『原子爆弾』という言葉に、日本語による理性には先帝が開発に反対したように『使うべきでないもの』という意味が付随し、米国語による理性には『使うべきもの』という意味が付随している。
 神があり関連した現象があるのではなく、まず紙を意識させる現象があり神を創る。神を創り出す現象は理解を超えたものである。理解とは歴史機能を備えた言語の理性化である。つまり、選択された認識の積み重ねを言葉の容器に流し込んだものが理解である。日本語に内包する理性を超えた原爆投下行為は、日本人とっては神の行いではなかった。それが紙の行いであり、行為者である米国を神としたのは、我々が二千六百年近くの歴史を選択継続してきた日本人ではないからである。
 英語を話すシンガポール人が英国人でないように、または同じ神を信仰しながらもイスラエル人がイラン人ではないように、日本語を話していても神道を信仰していても我々は日本人ではない。血液は非魔術的なただの物質であり、日本人の血統を受け継いでいても我々は非日本人である。我々は法律上のみ日本人である。即ち機能上的日本人である。
 民族は精神であり精神は現象を抽象化して生まれた言葉を更に抽象化したものである。つまり精神は言語上において効力を発生する。言葉は歴史的な存在であるため、歴史的な言葉の繋がりがなければ、そこには精神も民族のつながりもないのである。
 我々は歴史の浅い人工国家の民である。現在我々が共有し引き継いだ歴史は『太平洋戦争』という米国語に代表されるように米国史の一部、または米国が必要として設定した日本史である。占領政策の一環として、日本語容器の中身は日本人ではなく米国に決められ、それが二代三代と引き継がれ我々の歴史となった。と同時に、日本人は消滅し、彼らの遺産を我々は利用するようになった。我々は日本人の死装束を奪い日本人と名乗っているにすぎない。墓を暴き死装束を奪うために我々は死者を罵る。彼らは悪人であるのだから奪われても仕方ないと自己正当化するために唾棄する。夏になるとマスメディアで大規模に流される大戦中の凄惨な光景を繰り返し目にしながら『力なき事の虚しさと屈辱を仲間の死への怒りと共にいつ何時も思い出し』(沙村広明)たりはせず、日本人を軽蔑し、その遺産だけは利用し続けているのである。
 日本人を装いながらも違う民族の為「日本人として恥ずかしい」という行為を為す。しかしそのような行為を取ることこそが我々なのである。和の国だから、侍の国だから、戦後焼け野原からの奇跡の復興、というのは日本人の事で我々とは違うことを肝に銘じなければならない。五十年程度の歴史しか持たない我々はまだ原始人に近い人間である。金と機械を操る原始人である。深い理性を持つまでに至っていない言語の歴史しかないため、放射線汚染物質を風評被害という免罪符の下に国中にばらまくように幼稚で感情的で依存的にふるまうのである。押さないため、世界の認識は自らに不合理な事が多く、その状態を克服するために、虐待する養育者に対する子どもの意識と同じように、自らを卑下し、不合理の原因を神格化し、いつか助けてくれるという期待を抱く。それが報われず不条理な事は起きても、自分の行いを振り返りそれに対する罰だと思い込む。
 神の行いはすべて正当化される。そのため、核廃絶を声高に叫びながら、NPTに批准して神である米国とその仲間である国々の実が核兵器を持つ権利を擁護する。非核三原則を唱えた首相が核部隊の駐留を約束する。論理が破綻しているのが明確でありながらも、神の正当性により目を背ける事が出来るのである。
 『水に流す』ことと『己が悪いと諦める』こととは違う。我々が戦争の記憶に関して行っているのは後者である。我々は罪を犯したため原爆投下の神罰を受けたのである。罰するに値する我々の罪とは戦争である――そのように言葉の中身を入れ替えられた歴史の初期段階に居る我々は、神罰の行為者である米国を神とみなすようになった。神の理不尽さとは我々の怯えであり、怯えているために相手を責められず自己卑下を繰り返すのだ。
 戦争を避けることと忌避する事。核兵器を使わせないことと核兵器を忌避する事。それらの簡単な違いを、我々は区別できずにいる。それは米国にいじくられた我々の言語において、戦争は罪であり忌避すべきもの、核兵器は忌避すべきものであるが米国には保障するもの、原爆投下という理不尽な行為の立役者である米国を神とし服従することが規定されたためである。世界に対する我々の認識は、神である米国を中心として構築されているのだ。
 戦後、植民地であった国々が自らの手で言葉の中身を規定しなおし独立を果たして行った中で、言葉を入れ替えられたまま世代を経た日本から日本人は消滅した。機能上的日本人である我々は米国を神とする人工国家に生きており、奪い去った日本人の死装束羽織っているだけなのに、自分たちが日本人であると勘違いし、その矛盾に苦悩している。国民は一流なのに政治家は三流などと揶揄されるが、三流と呼ばれるあれら我々の代表者こそが日本人のふりをした我々の真の姿である。
 自己撞着を解決するため、我々は日本の名を捨て新しい名称を必要としている。例えばニホンの次ということでサンホンといったところであろうか。そうして名実ともに新制国家となった国で我々は、振り下ろされた神の一撃を思い浮かべながら『過ちは繰り返しませぬから』という祝詞を神に捧げ続けていけばよいのである。

6th Immorality (147 x 100, pen) by yandel (2011)


4th Immorality (147 x 100, acrylic, pen) by yandel (2011)


10th Immorality (147 x 100, pen) by yandel (2011)


Wednesday 28 November 2012

Secret (A3, pencil) by yandel (2010)


French Cherry Boy (A4, acrylic) by yandel (2010)


Japanese Cherry Boy (A4, acrylic painting) by yandel (2010)


One Morning (A4, pencil) by yandel (2010)


Pussy Egg (A3, pencil) by yandel (2010)



Balloon (A4, pencil) by yandel (2010)


Squint (A4, pen) by yandel (2010)


Hip Mouth (A3, pencil) by yandel (2010)


Out-in (A4, pencil) by yandel (2010)



Japanese Mulier (A3, pencil) by sin_g (2010)


Fairy Land 4 (size unknown, pen, pencil) by sin_g (2010)


1st Immorality (147 x 100 acrylic, pen) by yandel (2009)