Thursday 29 November 2012

God's Attack 煙的上腕骨または45年の神の一撃(1035 x 414, pencil, blood on scroll) by sin_g (2011)





 米国は神である。我々は米国を神とする国の民である。かの国にする人でも政府という具体的なものでもなく、それらを抽象化した米国という国が神である。
 神には二種類ある。ひとつに菅原道真に代表されるような人神。もうひとつはそれ以外のものであり、ここでは自然神と名付ける。人神は、生前の善行に依るもの、不幸に亡くなった人間の霊の慰めるため、またはそれが悪霊になったものに祟りを起こさせないために神格化したものである。いずれにせよ、それらは神を創り出す人間とかつては同じであったものである。自然神とは我々とは違う存在である。
 神罰とは神の怒りであり、受けた者にとっては『理不尽』という現象を指す。つまり理不尽なことを神の為したこととして我々は看做しているということになる。
 近現代史において、およそ自然現象は科学という哲学で解明されてきているが、我々はまだ神を存在させ続けている。神という意味が解る以上、意識には神がいる。なぜなら神という言葉は我々の理性から作り出されたものだからである。神は不自然であり、自然に非ず。外的な神が現在まで証明されていない以上、我々人間の歴史上に存在した神とは、すべて我々の作りだした形而上的存在である。
 理性とは言葉である。言葉の特異性は、時間を持つ、ということである。我々は先人の言語を使って生きている。この文章も、書くという行為の前提条件の文字もそこに含まれる意味も読みも、そしてこれを読んでいる方が分を理解する行為のそれらも、過去の人間が残した日本語の存在があってのことである。我々が新しく創り出したルールに依るものではない。それは歴史の中で積み上げられてきたものである。歴史とは意識の選択であり、種々雑多の出来事の中から先人がよきものとして残した過去の結果である。
 言葉とは容れ物である。故に歴史、言語、また各人によって、同じ言葉でも内容が違う事がある。言葉は意味を規定しているが、意味には主観的なものも交じるからである。『永世中立国』という言葉に対し非武装中立を思い浮かべがちな日本人とは違い、スイスでは国民皆兵である。言葉という容器に容れられたものが真実となるのである。
 米国は自然神である。それゆえその怒りは神罰であり、我々にとっては理不尽な現象である。その代表が原爆投下である。『原子爆弾』という言葉に、日本語による理性には先帝が開発に反対したように『使うべきでないもの』という意味が付随し、米国語による理性には『使うべきもの』という意味が付随している。
 神があり関連した現象があるのではなく、まず紙を意識させる現象があり神を創る。神を創り出す現象は理解を超えたものである。理解とは歴史機能を備えた言語の理性化である。つまり、選択された認識の積み重ねを言葉の容器に流し込んだものが理解である。日本語に内包する理性を超えた原爆投下行為は、日本人とっては神の行いではなかった。それが紙の行いであり、行為者である米国を神としたのは、我々が二千六百年近くの歴史を選択継続してきた日本人ではないからである。
 英語を話すシンガポール人が英国人でないように、または同じ神を信仰しながらもイスラエル人がイラン人ではないように、日本語を話していても神道を信仰していても我々は日本人ではない。血液は非魔術的なただの物質であり、日本人の血統を受け継いでいても我々は非日本人である。我々は法律上のみ日本人である。即ち機能上的日本人である。
 民族は精神であり精神は現象を抽象化して生まれた言葉を更に抽象化したものである。つまり精神は言語上において効力を発生する。言葉は歴史的な存在であるため、歴史的な言葉の繋がりがなければ、そこには精神も民族のつながりもないのである。
 我々は歴史の浅い人工国家の民である。現在我々が共有し引き継いだ歴史は『太平洋戦争』という米国語に代表されるように米国史の一部、または米国が必要として設定した日本史である。占領政策の一環として、日本語容器の中身は日本人ではなく米国に決められ、それが二代三代と引き継がれ我々の歴史となった。と同時に、日本人は消滅し、彼らの遺産を我々は利用するようになった。我々は日本人の死装束を奪い日本人と名乗っているにすぎない。墓を暴き死装束を奪うために我々は死者を罵る。彼らは悪人であるのだから奪われても仕方ないと自己正当化するために唾棄する。夏になるとマスメディアで大規模に流される大戦中の凄惨な光景を繰り返し目にしながら『力なき事の虚しさと屈辱を仲間の死への怒りと共にいつ何時も思い出し』(沙村広明)たりはせず、日本人を軽蔑し、その遺産だけは利用し続けているのである。
 日本人を装いながらも違う民族の為「日本人として恥ずかしい」という行為を為す。しかしそのような行為を取ることこそが我々なのである。和の国だから、侍の国だから、戦後焼け野原からの奇跡の復興、というのは日本人の事で我々とは違うことを肝に銘じなければならない。五十年程度の歴史しか持たない我々はまだ原始人に近い人間である。金と機械を操る原始人である。深い理性を持つまでに至っていない言語の歴史しかないため、放射線汚染物質を風評被害という免罪符の下に国中にばらまくように幼稚で感情的で依存的にふるまうのである。押さないため、世界の認識は自らに不合理な事が多く、その状態を克服するために、虐待する養育者に対する子どもの意識と同じように、自らを卑下し、不合理の原因を神格化し、いつか助けてくれるという期待を抱く。それが報われず不条理な事は起きても、自分の行いを振り返りそれに対する罰だと思い込む。
 神の行いはすべて正当化される。そのため、核廃絶を声高に叫びながら、NPTに批准して神である米国とその仲間である国々の実が核兵器を持つ権利を擁護する。非核三原則を唱えた首相が核部隊の駐留を約束する。論理が破綻しているのが明確でありながらも、神の正当性により目を背ける事が出来るのである。
 『水に流す』ことと『己が悪いと諦める』こととは違う。我々が戦争の記憶に関して行っているのは後者である。我々は罪を犯したため原爆投下の神罰を受けたのである。罰するに値する我々の罪とは戦争である――そのように言葉の中身を入れ替えられた歴史の初期段階に居る我々は、神罰の行為者である米国を神とみなすようになった。神の理不尽さとは我々の怯えであり、怯えているために相手を責められず自己卑下を繰り返すのだ。
 戦争を避けることと忌避する事。核兵器を使わせないことと核兵器を忌避する事。それらの簡単な違いを、我々は区別できずにいる。それは米国にいじくられた我々の言語において、戦争は罪であり忌避すべきもの、核兵器は忌避すべきものであるが米国には保障するもの、原爆投下という理不尽な行為の立役者である米国を神とし服従することが規定されたためである。世界に対する我々の認識は、神である米国を中心として構築されているのだ。
 戦後、植民地であった国々が自らの手で言葉の中身を規定しなおし独立を果たして行った中で、言葉を入れ替えられたまま世代を経た日本から日本人は消滅した。機能上的日本人である我々は米国を神とする人工国家に生きており、奪い去った日本人の死装束羽織っているだけなのに、自分たちが日本人であると勘違いし、その矛盾に苦悩している。国民は一流なのに政治家は三流などと揶揄されるが、三流と呼ばれるあれら我々の代表者こそが日本人のふりをした我々の真の姿である。
 自己撞着を解決するため、我々は日本の名を捨て新しい名称を必要としている。例えばニホンの次ということでサンホンといったところであろうか。そうして名実ともに新制国家となった国で我々は、振り下ろされた神の一撃を思い浮かべながら『過ちは繰り返しませぬから』という祝詞を神に捧げ続けていけばよいのである。

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