Thursday 29 November 2012

water experience (postcard, pen) by sin_g (2011)



『水先案内』展を開くにあたって。

 「作品で語れ。言葉で語るな」とは、知り合いの画家先生の言葉であります。しかし今回、初めて自分の作品だけの展示をすることにあたり、どうもそうは言ってられないなと考えるにつけ、このように文字を打つ次第です。ありていに言わば、書いてみたい、という欲求に負けたわけであります。
この紙を手にとられた来訪者様は、展示した九つの作品を見てなにをお感じになられたのでしょうか。それは僕の知るところではありません。もし僕がその場にいるのならお聞きすることもできましょうが、中々そうも叶いません。また、もし我々が言葉を交し合っても、我々がそれを通じて理解しあえるとも考えてはおりません。理解したとは思えるのでしょう。しかし、実際にその状態にいるとはいえないというのが僕の心情であります。なぜなら言葉というのは認識の表象であるから。それは透明な水に色の違う水を混ぜていくようなこと。どこまで経っても初めの状態である水からは脱出できないでいるのです。
ひとつの言葉にはふたつの現象があるといいます。それは音や文字といった表現と、その言葉の内容です。僕はその後者を更に分割できると考えています。それは、その内容に対する感情です。ある人間がある言葉を発するとき、そこにはある判断が組み込まれていることがあります。牡蠣にあたり壮絶な経験をしたことがある者からすれば、『牡蠣』という言葉を使うとき、そこには独立した『牡蠣』という言葉を形成する音や文字や意味と時同じゅうして、底知れぬ嫌な感じに襲われるものです。
人間はコンセプトを通じてコミュニケーションをとっています。我々が他者と意思をはかろうとするとき、常に伝えようとしたそのものを伝えることは叶いません。言語化、音楽化、接触を含めた身体表現といった二次元なものに変えなければ伝える術を持ちません。恋人が愛情を根底に愛する人に触れる行為は痴漢のそれと同じであります。我々が伝えようとした一次元なものは、決して直接に伝わることはありません。それは自分の居る、または居たある一点には同時に他人が存在することができないからです。またそのようにして蛇腹のように繋がりのある意識の流れは、決して他人が交代できるものではないからです。足して混ざらず、引いて消えるような瞬間の存在はないのです。我々が我々である以上、我々はいつまでもどこまでも個々の我々であるのです。
知覚が感覚となるためには、コンセプトを前提とした認識が必要とされます。針で刺されたときに起こる知覚を、『痛い』と認識するためには、『痛い』というコンセプトを含めた言葉を持っていなければなりません。『痛い』という言葉を知らずに『痛い』とは言えないのです。そのため、『痛い』という言葉を知らない外国人は、針で刺そうが槍で刺そうが『痛い』とは思わないのです。彼らは彼らの言葉でその知覚を認識するのです。言葉の存在を知らないで生きてきた者には、『日付』の意味がわからないのです。
コンセプトは重層的で且つ入れ子状態なものです。あるコンセプトの構成要素がコンセプトであるからです。例えば『家族』とは何であるのかの問いに答えを出した答案者達それぞれが別々の蛇腹的意識を持ち、それでも限定のある言葉等で表現をしているのです。答えを導き出したその意識の構成要素はそれぞれの答案者だけにしか得られなかったコンセプトです。同時に得られなく、まったく同じように見えても、どこかで合致しないものです。いわばコンセプトは無限で、表現は有限なのです。音はドレミファソラシドだけではないのです。それゆえ我々の伝えたいものを伝えようとするとき、それはいつも足らないのです。
さて、僕を含めた現代の日本人はある意味において未発達な民族です。民族としている以上、あえてここは大和民族としておきましょう。この島国で培ってきた言語およびそれの大本であるコンセプトとそしてそれに付随した社会生活と共に生きてきた民族のことです。なぜ未発達なのか。それは我々は純粋独自なコンセプトを総じて持つことが出来ないからです。なぜなら我々が漢字を使い始めたことにより、我々独自のコンセプト発達が止まってしまったからです。訓読みすることの出来なかったコンセプトは、すべて大陸発祥の借り物です。そこに善悪の基準を当てはめる必要はありません。それを抱合しながら生きてきているのが先者を含めた我々であるという考えもできます。
さて上記のことは、、伝統コンセプトにあたります。歴史コンセプトと呼んでもいいのでしょう。我々個人が存在する以前から存在していたコンセプトのことです。しかしそれとは別に、個人コンセプトというものがあります。先立って述べてきた、個々人が表現によって有限化された伝統コンセプトを受諾した上で作りあげたコンセプトのことです。個人コンセプトは、伝統コンセプトと似るときも反発するときもあります。
福沢諭吉の有名な「天は……」云々のくだりの後には、「学問を努めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学な者は貧人となり下人となるなり」と付随条件が記されています。福沢のいう学問は主に実学を指しているのですが、その中には歴史も含まれています。歴史とは生活出来事を包括したものです。度量衡や経済、争いや貿易、すべて入り交ざっているのが歴史の構成要素です。そしてその構成要素にも各々構成要素があります。その全てを一変したのが、我々にとっては第二次大戦の敗戦でした。占領国の日本史観否定政策により、我々の伝統コンセプトは覆されました。歴史の停止が行われたのです。歴史の停止、それは伝統コンセプトの断裂でもあります。それまでにあった出来事は無論変わることがありません。しかしそれに付随していたコンセプトは鼻を摘まんで目を背けるべきものとされました。それはもはや我々と相容れるものではなく、外にある別なものとして置かれたのです。
我々に残されたのは占領国から与えられたコンセプトを真新しいものとして受け入れたコンセプトと個人コンセプトのふたつになりました。しかし個人コンセプトも立脚するのは伝統コンセプトであるゆえ、我々がそれ以降培ってきているコンセプトは、我々にとっては新しいコンセプトに立脚した個人コンセプトであるわけです。我々はまだ数十年の歴史しかない伝統コンセプトの上に生きているに過ぎないのです。それゆえ我々の思考は未熟であり、「みない・きかない・かんがえない」という駄々っ子的な非核三原則や「一人の命は地球より重い」といった響きだけはいい単純な計算のない考えを好しとする子ども時代にいるのです。いわば、我々は原始時代にいるのです。『萌え』に代表される昨今の文化言葉が訓読みなのはそのよい証左であります。萌芽しかけているのです。
あるコンセプトの保持者が非保持者のことを、また非保持者が保持者のことを理解するのは難しいことです。保持者のコンセプトの構成要素のコンセプトもまた特別なものなのですから。我々はそれを色々ではあるが有限な表現方法で伝え合っていくしかありません。
などということを作品に関係なく考えた今日この頃でありますが、皆様どうお過ごしでしょうか。僕が鉛筆で表現した手や足や貝に見えるものを並べた作品に何をお感じになられましたでしょうか。皆様の意識に起こったもの、それは本当に普遍的なものでしょうか。
作品をご鑑賞いただきありがとうございました。また、展示場所を貸していただいたカオリ座の久保かおりさんに、紙上ですがここに謝辞を述べさせていただきます。

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